アマヤドリの軒下

●別館● アマヤドリ

2005-05-15

[]生活の設計 21:20

美人のもと

まったく私とはかけ離れたような素敵なオンナノコのブログを、時々覗く。

“オンナノコ”であるということに対する意識にへぇ、と感心させられる。こういうのってもはやプロ意識だ。踊りとか仕事とも一種通ずるものがやはりあるからおもしろい。何でも究極を突き詰めれば案外シンプルなところに行き着くのかもしれないなぁ。

私のおばあちゃんはとにかく肌がキレイ。必ず人に誉められるらしくそれを誇りにしている。会うたびに「あたしね、とてもそんなお年に見えないキレイな肌ですねって言われるんだけど、そう?」と嬉しそうに話す。そんなおばあちゃんの様子が好きだ。

おばあちゃんは毎日お風呂からあがったあとのコールドクリームでのマッサージを欠かさない。もう50年以上毎日だ。小さい鏡を置き、その前で丹念にマッサージ。化粧水さえ面倒臭い私には信じられない。私はそんなことに時間を使うなら本を読んだりしたいとか思うくらい、もうとにかくずぼらなのだ。

でもそうやって一日の時間のうちの何分かを大事なことに当てる。しなくてはならないことに切り分ける。それが生活というものなのだろう。

そう考えるとなんだか少し胸が痛くなる。おかしな感覚だけれど…ひとってなんて健気なんだろうって。おばあちゃんのその積み重ねられた時間をとてもいとおしく思う。

私はとてもそんな風にはなれないような気がする。本当にそれを求めてもいないくせにおかしなことだけど、それは私にとって最大の暗やみなのだ。私だけに備わっていない何か。どうして、どこで落としてきたのか。

どのくらい私は縛られているのかを考える。

大げさだけれど。

うん、大げさだな。

きっと私はただ甘えているだけなのだ。

そしてただ、なまけてきた。

きっとそれだけ。

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2005-05-01

[]日曜の昼にブログ歩き 13:39

ENDING ENDRESS

『クラゲの正体』

くらげは好きだ。私も水族館に行くと「くらげはいるよね」と必ず思う。もっといっぱいくらげがいてもいいのに、とも思う。

くらげには目がないと聞いたことがある。本当かな。

好きなのに、全然知らない。

たとえばこんなことも。

(文章を一部お借りします)

人間の体温が摂氏36度以上あるのに対し、クラゲは海水と同レベルだから高くても28度くらい。ゆえに、10度近く高温の人間が撫で回せば、クラゲのほうが低温火傷してしまうそうだ。クラゲの体は表層(外胚葉の細胞層)が大切で、そこを火傷すると再生できずに、死ぬ。だから、触れた人をクラゲが刺すのは、必死の反撃なわけ。

そうか…低温火傷。

低温火傷も、ちょっと昔から謎だ。

よくおばあちゃんがホッカイロで低温火傷をしていたけれど。

猫が冬寒かろうと思ってホットカーペットを買ってあげたことがあって、でもその時に低温火傷をしないかとても心配になって留守にするときにはつけないでおいた。

現代パフォーミングアーツ入門

ローザス

ちょっと前に埼玉芸術劇場に舞台のお手伝いに行ったときにローザスの『ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ』のチラシを見つけ、絶対に行くぞ、と心に決めていた。

にも関わらずなんだか日々のごたごたでいつのまにか終わっていてとても残念。

フィルムをやっているとは知っていたけど…やっぱり行こう。

明日はちゃんと起きなきゃ。

渋谷ユーロスペースにて。

陸這記

『真夜中の家 絵本空間論』

f:id:bittersweet:20050501133717:image:small

何故か昔から建築関係の人がそばにいることが多い。父もそうだし、こいびともそうだったり。

だからちょっと建築には興味がある。全く無知だけれど。

この本はAmazonで検索しても出てこなかったのだけれど、もしどこかで見つけたら読んでみたいなあ。

この画像は勝手に拝借してしまいました。

どんな本か、表紙を覚えておきたくて。

solarsolar2005/05/03 08:00リンクをたどってやってきました。陸這記のid:solarです。植田さんの本は、下記のサイトで注文できます。24巻目です。
http://www.linkclub.or.jp/~sumai/TAIKEI/index.html
また、読むだけならば、新宿の住まいの図書館で貸し出しもしてもらえますよ。
http://www.linkclub.or.jp/~sumai/LIBRARY/

bittersweetbittersweet2005/05/04 21:47solarさん★
ご親切にありがとうございました!
探してみますね。新宿は行動範囲内なので、機会があったら覗いてみたいと思います。
実は全く建築の知識などないのですが、題名と表紙の可愛さに惹かれて…画像まで断りもなく使ってしまって申し訳ありません。

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2005-04-30

[]優先のきもち 21:18

席を譲らなかった若者

電車で席を譲ると何だか恥ずかしい気持ちになる。決して私がしたのは悪いことじゃないのにどうしてだろう?何だかいい子ぶってるみたいだからだろうか。

たまに全くお礼も言ってくれないひともいる。どいて当たり前だ、という態度をされると、また私は何故か恥ずかしくなる。あの子、せっかく譲ったのにね、って思われてる気がするからだろうか。余計なことしたよな、って思われてる気がするからだろうか。

お礼を丁寧に言われてもやはり同じだ。自分の顔が赤くなるのを感じる。降りるふりをしようかと思う。

この心のはたらきはすごく変だ。

いつもは目立ちたがり屋なのに、誉められたがり屋なのに、こんな風なかたちで目立つのは苦手、ということか。

私はそんなに席を譲ることに関してはけちけちしていないつもりだけれど、やっぱり疲れていて始発の駅で一本電車を見送ってわざわざ座ったりした時には、譲りたくないなぁと思う。私も待ったのに、と心のなかで思ってしまう。

あ、私案外けちけちしているな。

でも、やっぱり自分がお年寄りだから、とかいうことに奢りや甘えを持ち過ぎずにいてほしいとは思う。だって年寄りはいたわるべき存在、なんて思われたら癪なんじゃないだろうか?私だったらそんなの淋しいな。お年寄りだって若者だって子供だって等しく疲れたり、楽したかったり、するんじゃないのかな。条件が違うというだけなんだもの。

もちろん元気で丈夫な人は疲れてる人に席くらい譲ってあげたらいいと思う。でもそんなの別に決まりでも常識でもなく…ただの個人個人の気持ちだから。

目の前のおばあさんをみて、私はやっぱり自分のおばあちゃんをこんな風に立たせとくのはイヤだな、と思う。

目の前の妊婦さんを見て、私はやっぱり妊娠してる友達をこんな風に立たせとくのはイヤだな、と思う。

だから譲る。

それだけ。

それにしても何で恥ずかしいんだろ。

おかしいよな。


[]絵本をたくさん 17:28

++晴耕雨読++ akintonさんのブログ

将来子供にはたくさん絵本を読ませてあげたいと思う。

本当は、正直にいってしまえば、私がその絵本を読みたいのだけれど。

だってなんだか絵本って自分のためにだとぜいたくをしているような感じがして買えないんだ。

友達にプレゼントはよくするのだけれど。

将来のために今から絵本のリサーチをこつこつとしている。

私は声が低いので子供に添い寝をしながら本を読んであげたらすぐにすやすや眠ってくれそうだ。楽しみだな。

私には本当の意味で子供が可愛いということがまだわからないのかもしれないとよく思う。

いや、子供を眺めるのは好きだし一緒に遊ぶのも大好きだ。友達のうちにいっても友達そっちのけで子供と遊んでいるくらい。そして疲れさせ眠らせてしまうので感謝される。

私は子供に対して子供だと思って話し掛けないのでたまにすごく難しいことばで話したりしてしまう。でも目をみながら話すとなんとなく通じてくれる。

可愛い。

笑窪のある手やあたたかい匂いや細くてやわらかい髪の毛やかさかさしているまあるいほっぺも。

でも母になったことがないから当たり前だけれど、そのほんとうの愛しさの感覚がわからない…のかなあとも思うのだ。

想像としての感覚はこの鼻先まできているのに。つかめない感じでふっと薄れる。


私はたぶん子供を育てられるかどうかをとても不安に思っている。

ものすごく集中力があるから、たぶん世界のうちの100のうち70くらいは私を通り過ぎている。そしてたぶん、そのうちの絶対に抜けてはいけない7くらいのうちの3つくらいは、ぽこっと抜け落ちているかもしれない…ような気がするのだ。

それが致命的なことであったなら…。

それが怖い。

子供に関してもそれが当てはまる。私が今まだ知らないことは当然ながらたくさんあって、さほど心配しなくても赤ちゃんを産むときにそれはわかるようになるのだろう。

でもすごく当たり前で誰も教える迄もないというようなことを私が感知できなかったならば?

知らなかったでは済まされないようなことが起きてしまったらどうしよう。


そんな不安を持つ一方で私は子供と世界をもう一度体験しなおすことが楽しみで仕方がない。

私は二度と子供に還ることはできないけれど、一緒にその時間を生きることができるのだ。

もしかして、そのためかな。

私が、沢山絵本を用意したり、沢山はなすことを考えたり、たくさん一緒に見たいものを蓄えているのは。


著者: 金子 みすゞ, 矢崎 節夫

タイトル: わたしと小鳥とすずと―金子みすゞ童謡集


[]おんなのひとのめいろ 00:52

真夜中の給水塔

 最後の3行が、とても好きだ。

 いつも、なんて大人なひとなのに少女のような透明な文章だろうかと思う。

 こんな風な、きちんとした思考のひとになりたいと思う。

 きちんと。

 でも白い雪の上をふらふら歩くような。

 

 こんなような気持ちをたいせつなひとに持っていても、

 なかなか伝わらないことってやっぱりある。

 それは私の表現力の稚拙さも影響しているかもしれないけれど、

 やっぱり求めているものが違うのかもしれないとも思う。

 あがいても首を傾げられるだけで、

 私のこころがどんどんがらんどうになるだけ…

 

 どうなんだろう。

 

 それを大切な領域みたいにしている私は子供みたいだろうか。

 このまっすぐなこころが、おかしくて、でも少しほっとしたりもする。

 ちゃんとまだあったね、って。

 なくしたくなかったもの。

 まだむきたてのライチみたいに柔らかくて

 手で包んであげないと乾いちゃうように頼りなさげだけれど。


 そばにいても、遠くにいても。

 間違っちゃった時でもゆがんだ時でも。

 そのときのために、思い出や幸せで好きになる時間はあたためられているのかな。


[]共感覚 16:20

http://www.mindresort.net/mt/slowlog/archives/2005/03/aioeoao.php

ここに興味深いページがたくさんあったので覗かせていただいた。


そもそもは「ほぼ日刊イトイ新聞」で知った共感覚

昔からちょっと不思議だった自分の感覚を、もしかしたらこれなのかな、と興味を持った。

共感覚のサイトを見てみると、文字に実際色がついていたり、何かを見たり聞いたりしただけで実際に触覚が働いたりする。

つまり、五感の何かと何かが連動して働く、というようなもの。

たとえば、ある人はレモンパイを食べようと思うと、とんがってちくちくした感じが(気のせいではなく実際に感じる)するので

やめよう、と思ったりするらしい。

私の場合実際に目に見える色がつくわけではなく、一文字一文字に対する色のイメージが決まっている。

たとえば、「あ」は濃い赤。「ら」は京風の紫。というように。

だから、文字の組み合わせである名前にも色がきまっていて、その人の名前を呼ぶとその色が頭の中に浮かぶ。例えば「あらい」だと、赤紫っぽい。

こんな風に「あ」と「ら」が混ざっているから、という単純なものから、組み合わさると色が変わってしまうものまで色々で、自分でも法則は分からない。

でも「新井」は「荒井」よりほのかに黄味がかっていたりして、微妙に違うから漢字にも関係あるのかもしれない。

その文字の色が、そのままその人のイメージになることも多いから色が似ている名前同士は間違ってしまったりする。

「青木」と「木村」とか、「高橋」と「柴田」とか。

しかし覗いてみた共感覚の人たちのようには強烈ではない。実際色が見えるわけでもないし、なにかを見て匂いがしてきたりもしない。

だからちょっと共感覚とは違うかもしれない。

子供の頃はどうだったか…それは思い出すことができない。

そう、子供で思い出したけれど、たとえば文字を覚えた子供に色つきの文字ブロックを見せたら、「どうして“あ”が黄色なの?“あ”は赤でしょ?」という

発言をして、共感覚者だということがわかることがあるそうだ。

もしかしてこの感覚は、なにか創るということの手助けになりはしないか。

ちょっと期待しているのだけれど…そううまくはいかないかな。


[]高速の右肩 00:24

のすけさんの学級日誌。

 ホント、高速道路で聴いた曲はどういうわけだか心に染み込んでいて

 ふとしたたわいもない頭をよぎった気持ちとかがセットになっている。

 私の場合高速道路では何故かちょっと緊張していて

 体にも力が入っているからそれをほぐそうとまた神経を使っている。

 隣にいるひとはちょっとそっけない。

 だから愚かだけれどその間は置いてゆかれるんじゃないかと横顔を盗み見てしまう。

 集中させろ、って。

 そんなちょっと特殊な空間の中で、聴くからなのだろう。

 

 それで思い出したのだけれど、私にとってI Wishの『明日への扉』も

 けだるくて、今が終わって欲しくなくて、醒めたくなくて、

 だけど始まりみたいなどきどきと、どうせ偽りだという嘘だらけとの空気と

 諦めて堪らず仰いだ空と喧騒をたっぷり引きずっている曲。


[]優しい視線 23:54

bigtiger.sさんのblog

はじめに見たときから、そのくっきりした色合いの動物達の毛並みやら目線やらに心を動かされたのだけれど、なんといってもその写真ひとつひとつに添えられたコメントが可愛らしい。

とくに多摩動物公園のきりんの記事は、心をひかれた。

小さな頃からきりんがとても好き。

お母さんとおそろいのワンピースを着てどこかの動物園に行った写真がある。

私はオレンジ色の風船を持っているのだけれど、それをキリンとキャッチボールのようにやりとりしたことを覚えている。

とある時のこいびとにキリンとチーターが見たいと言って多摩動物公園に行った時にはそのキリンの多さに大喜びし、いつまでもそこを離れなかった。

ごはんを食べる時のやわらかいくちびるや、しなやかな筋肉のくびすじや、ながいまつげをずうっと見ていた。まさにこの写真の丁度反対側から飽きることなくスケッチした。

それから、あのユキヒョウも、もう多摩動物公演にはいないんだ。

と不思議な気持ちになった。

でもサファリパークの方が、広々として楽しいのかしら。

だって斜面のとっても上のほうに、憮然として座っていたから。


愛情がその写真からも、言葉からも伝わってくる。

そんなお部屋を覗いて、私もしばし素敵な時間をすごす。

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2005-04-28

[]絵本をたくさん 17:28

++晴耕雨読++ akintonさんのブログ

将来子供にはたくさん絵本を読ませてあげたいと思う。

本当は、正直にいってしまえば、私がその絵本を読みたいのだけれど。

だってなんだか絵本って自分のためにだとぜいたくをしているような感じがして買えないんだ。

友達にプレゼントはよくするのだけれど。

将来のために今から絵本のリサーチをこつこつとしている。

私は声が低いので子供に添い寝をしながら本を読んであげたらすぐにすやすや眠ってくれそうだ。楽しみだな。

私には本当の意味で子供が可愛いということがまだわからないのかもしれないとよく思う。

いや、子供を眺めるのは好きだし一緒に遊ぶのも大好きだ。友達のうちにいっても友達そっちのけで子供と遊んでいるくらい。そして疲れさせ眠らせてしまうので感謝される。

私は子供に対して子供だと思って話し掛けないのでたまにすごく難しいことばで話したりしてしまう。でも目をみながら話すとなんとなく通じてくれる。

可愛い。

笑窪のある手やあたたかい匂いや細くてやわらかい髪の毛やかさかさしているまあるいほっぺも。

でも母になったことがないから当たり前だけれど、そのほんとうの愛しさの感覚がわからない…のかなあとも思うのだ。

想像としての感覚はこの鼻先まできているのに。つかめない感じでふっと薄れる。


私はたぶん子供を育てられるかどうかをとても不安に思っている。

ものすごく集中力があるから、たぶん世界のうちの100のうち70くらいは私を通り過ぎている。そしてたぶん、そのうちの絶対に抜けてはいけない7くらいのうちの3つくらいは、ぽこっと抜け落ちているかもしれない…ような気がするのだ。

それが致命的なことであったなら…。

それが怖い。

子供に関してもそれが当てはまる。私が今まだ知らないことは当然ながらたくさんあって、さほど心配しなくても赤ちゃんを産むときにそれはわかるようになるのだろう。

でもすごく当たり前で誰も教える迄もないというようなことを私が感知できなかったならば?

知らなかったでは済まされないようなことが起きてしまったらどうしよう。


そんな不安を持つ一方で私は子供と世界をもう一度体験しなおすことが楽しみで仕方がない。

私は二度と子供に還ることはできないけれど、一緒にその時間を生きることができるのだ。

もしかして、そのためかな。

私が、沢山絵本を用意したり、沢山はなすことを考えたり、たくさん一緒に見たいものを蓄えているのは。


著者: 金子 みすゞ, 矢崎 節夫

タイトル: わたしと小鳥とすずと―金子みすゞ童謡集

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2005-04-16

[]おんなのひとのめいろ 00:52

真夜中の給水塔

 最後の3行が、とても好きだ。

 いつも、なんて大人なひとなのに少女のような透明な文章だろうかと思う。

 こんな風な、きちんとした思考のひとになりたいと思う。

 きちんと。

 でも白い雪の上をふらふら歩くような。

 

 こんなような気持ちをたいせつなひとに持っていても、

 なかなか伝わらないことってやっぱりある。

 それは私の表現力の稚拙さも影響しているかもしれないけれど、

 やっぱり求めているものが違うのかもしれないとも思う。

 あがいても首を傾げられるだけで、

 私のこころがどんどんがらんどうになるだけ…

 

 どうなんだろう。

 

 それを大切な領域みたいにしている私は子供みたいだろうか。

 このまっすぐなこころが、おかしくて、でも少しほっとしたりもする。

 ちゃんとまだあったね、って。

 なくしたくなかったもの。

 まだむきたてのライチみたいに柔らかくて

 手で包んであげないと乾いちゃうように頼りなさげだけれど。


 そばにいても、遠くにいても。

 間違っちゃった時でもゆがんだ時でも。

 そのときのために、思い出や幸せで好きになる時間はあたためられているのかな。

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