Extension du domaine de la lutte

2006-03-13

ここわすれてた!

たぶんあとでなんか書きます。時間があれば。

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2005-07-14

[]セグメントアドレスNo.1

 趣味嗜好によりセグメント化されたユーザー層に向けオプトイン的な日記を書けばビジネスチャンスならぬアクセスチャンスが訪れると聞いたので、日記を分けている。というわけでもなく、実際は分裂しているだけである。そもそも日記のセグメント化がアクセスチャンスを云々などそんなこと誰が言ったのか…あ、俺だ。今俺が言ったのだった。というか、日記ではなくて仕事企画書に似たようなことを書いた覚えがあるのだった。それを日記に置き換えてみただけだった。さらに言えば、それすら当然オリジナルの文言であるはずがなく、オプトインメールに関するどこかの解説記事の受け売りであった。割と、コピペと援用の力で企画書は成り立っていると言える。


 しかし、広告メールのセグメント化はビジネス資本主義的効率を考えると有用性が高いが、日記広告メールに比べると資本主義的要素は薄い。ゆえにセグメント化された日記は、有用性の高さはあるのかもしれないが、どちらかというと単に統合性を欠いた分裂症的なものなのとなってしまうのではないだろうか。

 セグメント化されたオプトインメールを統括しているのは企業であるが、セグメント化された日記を統括するのは個人である。個人のほうが、よりダイレクトに感情に左右されるので、分裂症的側面の影響をよりダイナミックに受けやすく、そのような日記たちは個人の精神活動を引き裂くような恐れが多々あると言えるだろう。分節化された個々の日記はそれぞれ不可避的に偽-自己的なペルソナを纏わざるを得ない。より強く。そもそも「真-自己」は所在するのかという問題は別として、またそもそもどんな日記も偽-自己的だという前提も別として。


 ただ、問題は、「何が」日記サイト管理人にセグメント化された日記を書かせるかである。日記を書く個人は――元々「商業的」な日記ではないしそれを標榜してもいないならば――統合化された日記を書くことを「望む」。言い換えれば、ありのままの個人を日記に反映し、それを受容されることを希求している。だが、日記を読む他者は自分の趣味嗜好に合ったセグメント化された日記を要求するのだ。というより、要求せざるを得ない。ゆえに、「受容(と出来れば賞賛)」を求めるある種の凡庸な日記書きは時に悩む。様々の人間の趣味嗜好に合った「おもしろい」日記が求められるのだから、その要求に応えようとする。また同時にその要求からは外れるが彼の好きなこと書きたいことを書くという欲求がある。そことの調整・せめぎあいの結果として、彼が取る施策の行き着く先が日記のセグメント化となる。セグメント化された個々の日記はもちろん「各々の読者」に「受容」される割合が増すだろうし、当初はそれを彼も喜びもするだろう。


 だが、往々にして、セグメント化は更なる細分化を要求しもするし、また彼はとあるセグメント化された日記(特に、もっとも広範な支持を得ていると彼が思い込んでいるもの)を、「たとえそんなものを書く気分ではなくとも」書き続けなくてはならない。同時に「そんな気分に合った」日記も書かなくてはならない。疲弊と、日記群に飲み込まれる恐怖が彼を襲う。なぜなら彼が書く日記それぞれは今や「彼」と大いに乖離している、異質のものだからだ。しかしすでに彼の統合的日記は消失しているとはいえ、もはやセグメント化された日記群の総体らしき朧げなものが「彼の日記」であるから、彼の日記は窮極的には「そのひとつとても書き損なわれてはならない」。彼は書かなくてはいけない。書き続けることによりまた彼の日記は分裂してゆくとしても。これは彼の悲劇である。しかし、彼が招いたことでもある。




 というかもう何かいてるんだかわかんなくなってきたから素に戻るけど、俺も自分の日記がいくつあるのかは忘れた。アイディーfarrah以外にも、ここと、もういっこあって、あと他にもふたつくらいはてな以外の日記があった気がする。もう何がなんだか、あんまりよくないなあと思う。

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2005-07-13

[]狭量

 まあ、非常に殺伐としている心境である。こういう時に「みんな死ね」という言葉は口からうっかり出てくるのだと思うが、その「みんな」とは往々にして、物理的な「みんな」ではない。自分が感じてしまっている嫌な圧力のことを便宜上「みんな」と呼んでいるだけで、誰かではない。仮に死を与えられる能力を所持したとしても、自分と、妻と、あと友達とか、気のいい連中とか、そういうのは残したいし、だから案外「みんな」というのは「僕以外の全員」という意味ではないから、ほんとは、「気持ち悪い連中に限ってみんな死ね」と言うべきなのかもしれない。けれど、説明するのが面倒だから「みんな」って言うわけであり、つまりはそういうことである。あと死ねっていうのも言いすぎなのでもう少しソフトに言いたい。気持ち悪い圧力がみんななくなりますように。遅くなったけど七夕のお願いです。

[]拡散

 あーもう、いけない、日記とかいって気持ち悪い。というか自分の書く日記がよろしくない。それよりも今、原稿書きたくないし、他にもいろいろ、したくないことだらけ。でもやらないといけない。やだなあ。

・久々にここを更新しよう。ここにはたいてい仕事とかに付随する境遇とかで気持ち悪くなった後に暗いことしか書いてないような気がするが、多分自分の中でそういう場所になってしまったんだろう。自分の管理する他の日記は一応たのしいことを書くようにしてるけれど、そのように分かれてしまってよいものなのだろうか、疑問には思う。統合と分離。すべての日記が統合されている時、ひとつの日記しか更新していない時は、たぶん、全的に私を見てもらいたいという気持ちが働いているのだと思うが、このように日記がそれぞれ内容的に分離拡散している時は、その試みが行き詰ったことを示しているのかもしれない。そういえばなんで日記を書いているのだろう。僕は日記なんて嫌いなのかもしれない。


勝ち組負け組という概念を煽った連中を惨殺せしめたいとふと思うことがあるが、私もどちらかというと煽る側に所属し日々銭を稼いでいるため、惨殺計画を実行するのなら同時に私も殺される方になってしまうかと思う。煽る側は何らかの思惑、信念、確信、などに基づいて意図的に仕掛けるかもしれないが、それは拡散すればするほど伝わらなくなるだろう。水が沁み込んでゆくように、ぐちゃぐちゃに、なんだかよくわからなくなってしまって、それが全体となる。


・効率化というのは誰のためにやるのか。自分のためか。


・家に帰れないととても悔しい。私は全てが欲しい。正直の話、そこらに歩いてる人とか、楽しそうに見えて苛々したりもする。そんな状態が続くと、麻痺しているような錯覚をおぼえるけれど、ほんとに気のせいだと思う。というより、それをなんとかするのは自分自身しかいない。


読書中:レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』。ニューアムステルダムメトロポリスへ変化してゆく過程なんかが書かれている、ほぼ冒頭の100ページ程度のところをいま読んでいて、おもしろい。昔のテーマパークの部分とかおもしろい。あと、どうも自分は、実際の建築物よりも記述されていたり絵に描いてあるもののほうが好きらしい。たとえば、以前観た野又穣の展示は良かった。


・エミットローズのポールマッカートニー以上のマッカートニーぶりは賞賛に値する。


・さきほどから目に映る光景が遠い。今日もいつ終わるのか見当もつかない。それがかなり、原因の大きな部分を占めている気はしている。

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2005-06-20

書き途中

 たぶん十人くらいの学生が、迷路の壁みたく、教室に向かってあわあわと走るわたしに立ちはだかって。その間を縫って走る羽目になった。というより、わたしがわざわざ迷路に飛び込んだのかもしれない。もっとも、当の迷路たちのほうはわたしを邪魔してやろうなんて思っているわけではきっとなくて、たぶん彼らは授業の時間ではなかったから、そこを、三号館の入口あたりをぶらついていたのだろう。あるいは授業中だったのかもしれない。だけど、もしそうだったとしてもそんなことは気にせずに――その日はなんとなく、ぼんやりした暖かい眠気を誘う空気がキャンパスを包んでいて、どこかへ行きたくなるような天気だったのをわたしは覚えている――例えば駅裏の雀荘にでも行こうとしていたのかもしれないし、もっと遠出をして渋谷とか新宿とかに遊びに行こうとしていたのかもしれなくて、要するにただただ仲間内でこれからどうする?なんて話しながらのらりくらり歩いているだけだったんだろうけど、教室を目指すわたしにとってはやっぱり彼らは迷い道そのものだったのだ。

人間は高速で移動すればするほど視界が狭くなる、って、何か高校生の頃に受けた授業だったか、本だったか忘れたけれど、そんなことを聞いたことがある。ただでさえ視界が狭いわたし、いや、そうじゃなくて、わたしは別に物理的に視界が狭いわけじゃないと思うから、なんというか、視界の狭いわたし、なんて言って、顔のつくりが変、とか思われたくないし――だから注意力が足りないわたし、と言うべきかもしれないけれど、そんな自分が走っているのだから視界というか「わたしが視ている世界」はいよいよ狭まる。前はまあなんとなく見える。正確な範囲はわからないけれど、それとなく前の方は。だけれど横の方だとかはほんとにぼんやりしていて、大まかなものの形が見えるか見えないかで、そんな世界の中を駆けるわたしはある意味走る凶器と言えなくもない。

だからわたしが、その時、彼ら迷路たちの隙間をせわしなくも駆け抜けることができたのは奇跡と言ってもよかったと思うけれど、それは二度も続かなかった。


学生たちの身体で造られた壁をかきわけるように迷路を抜けて、文字通り視界が開けたかに見えたその時、目前に小さな女の子が身を屈ませようとしているのが見えた。ちがう、見えたとはっきり言えるかどうか、怪しいものだったけれど、少なくとも、彼女――矢口真里という名の、小ぶりでかわいらしい女の子――が拾おうとしていたファッション雑誌がわたしの目にほとんど入らなかったのは確かだった。

「ぶつかる!」

と思って彼女をよけようとした次の瞬間には、もう手遅れで、わたしは彼女が落とした『ViVi』を、後で調べたらそれは6月号、「今年は『白』で勝つ!」という特集が組まれていたものだったみたいで、それを体勢を崩しかけた右足で踏みつけた末に、派手に転ぶ。いちおうわたしにも生物的な咄嗟の判断というものが備わっており、どうやらなんとか手をついてみたらしいけど、それでも痛くて、そして恥ずかしくて、なんだか起き上がる気にはなれなかった。ああ、韓国語、遅れちゃうかなあ。あの授業、遅刻するともうその時点で欠席扱いだからとても困るんだけど、すでに間に合わないかもしれない。韓国語。それならば、いっそ、ここで倒れていたほうがいいのかもしれない。だいたいこんな、這いつくばって、痛いわたしが、三号館の、二階にあるあの教室へ行けるだろうか。いや、むしろ、わたしはここで倒れるべきなのだ。

 とか何とか、ふわふわした頭でぐるぐるいろいろなことを考えていると、

「ちょ…ねえ、大丈夫?」

と声がかかる。先ほどの、小さな彼女だった。わたしは、「あっ」と思い、返事しなきゃって、んん、と腕をつき、半身を起こし振り返ると、眉根をわずかにひそめて心配そうな顔をした彼女がわたしを覗き込んでいる。その顔は小さくてかわいらしい。茶系の明るい色で、肩の辺りまで伸びてゆるやかに巻かれている髪、くりりとした愛らしい瞳。触れたら心地よさそうな唇が少し震え――ごめんね、ほんと大丈夫? いきなりだったからこっちもびっくりしちゃったけど…――彼女がわたしを見て、心配そうな声をかけていた。

「あ…いや…大丈夫です…」

「ほんとに?病院、っていうか医務室行こうか?」

「ええ、でも、いやほんと、大丈夫ですから」

 そう答えて立ち上がろうとした時、わたしは自分が何に躓いて転んだのかを理解した。わたしのせいで、ぐちゃぐちゃになった『ViVi』がそこにある。表紙に写る、どことなく目の前の少女に恰好が似ている気がするきらきらとした印象の明るく綺麗な女の子たちは、わたしの走る速度による勢いを上乗せされた体重がかかったスニーカーによって潰され、ぐしゃりと形を変えていた。いくらなんでもくしゃくしゃな顔になっては、恐らく恋には勝てないだろう。ちがう、そうではなくて、たいへんだ。わたしは人の雑誌をだめにしてしまった。「! ごめんなさい!雑誌…!」と答えるあわあわ顔のわたし。

「ああ…別にいいんだけどね。もう読んじゃったし」

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2005-06-02

そうだ日記を書こう

 しかし書く事が無い。澱んだことしか書けない。煙草が無いと死ぬ思いだ。さっき買ってきた。

 最近唯一、と言っていいのかどうかわからないけれど、おもしろいなあと思ったことは、麻草さんの日記で紹介してた、はてな連作しかない。

http://www.hatena.ne.jp/1117536639

 ここに僕も文章を書いた。読み返してみると、やっぱり、そんなにいい出来ではない。いい出来ではない、とか書くと、まるで何か、自分が本来ならもっと書けるような印象もかもし出せるけど、なんのことはない、これ以上のものが書けないだけだと思う。

 書いてるとまた暗くなってくる。暗くなっているのは誰の所為でもないから、申し訳なくなるけど、でも、今、心の底から何もしたくない。まだ資料作成が残っている。メールの返信も、残っていて、原稿を編集というか、修正依頼をしようか迷っている。原稿を読んで、「」と言いたくなるのをこらえる。自分だって同じ境遇だとしたらそうそう変わらないものしか上げられないだろうのに。

 しかし愚痴愚痴したことを書くのは、本当に誰の所為でもない。それは誓って言えるのだけど。

対症療法

 書くと楽になる、といえば楽になる。対症療法。でもまだ駄目だ。はてなの下書き機能というやつをはじめて使った。なかなか便利かもしれない。そうか、書いたことを隠せるのか。このエントリーの下の記述は、僕以外誰も――まあシステム管理の人とかなら読めるのかもしれないけど――読めないのか。それはいい。となると、単純化した図式を言うなら、下書き機能で覆われた部分の日記は、さながら、隠匿された <真の> 内的日記体系であり、そうすることによって <真の自己> ≒ <真の日記> は守られるというわけで、そして表層化されている部分は、にせ-日記体系とでも言えばいいのだろうか。そのような分裂性質を持つ日記は、やがて離日記化や日記の内破、あるいは石化を引き起こすのかもしれない。というか、このような隠しサイト的なサイトの使い方自体、日記自己の分裂的素養を孕むというのは昔(たとえば侍魂以前とか!それか日記系第一世代とか!)から言われていることだと思った。

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