Extension du domaine de la lutte

2005-06-20

書き途中

 たぶん十人くらいの学生が、迷路の壁みたく、教室に向かってあわあわと走るわたしに立ちはだかって。その間を縫って走る羽目になった。というより、わたしがわざわざ迷路に飛び込んだのかもしれない。もっとも、当の迷路たちのほうはわたしを邪魔してやろうなんて思っているわけではきっとなくて、たぶん彼らは授業の時間ではなかったから、そこを、三号館の入口あたりをぶらついていたのだろう。あるいは授業中だったのかもしれない。だけど、もしそうだったとしてもそんなことは気にせずに――その日はなんとなく、ぼんやりした暖かい眠気を誘う空気がキャンパスを包んでいて、どこかへ行きたくなるような天気だったのをわたしは覚えている――例えば駅裏の雀荘にでも行こうとしていたのかもしれないし、もっと遠出をして渋谷とか新宿とかに遊びに行こうとしていたのかもしれなくて、要するにただただ仲間内でこれからどうする?なんて話しながらのらりくらり歩いているだけだったんだろうけど、教室を目指すわたしにとってはやっぱり彼らは迷い道そのものだったのだ。

人間は高速で移動すればするほど視界が狭くなる、って、何か高校生の頃に受けた授業だったか、本だったか忘れたけれど、そんなことを聞いたことがある。ただでさえ視界が狭いわたし、いや、そうじゃなくて、わたしは別に物理的に視界が狭いわけじゃないと思うから、なんというか、視界の狭いわたし、なんて言って、顔のつくりが変、とか思われたくないし――だから注意力が足りないわたし、と言うべきかもしれないけれど、そんな自分が走っているのだから視界というか「わたしが視ている世界」はいよいよ狭まる。前はまあなんとなく見える。正確な範囲はわからないけれど、それとなく前の方は。だけれど横の方だとかはほんとにぼんやりしていて、大まかなものの形が見えるか見えないかで、そんな世界の中を駆けるわたしはある意味走る凶器と言えなくもない。

だからわたしが、その時、彼ら迷路たちの隙間をせわしなくも駆け抜けることができたのは奇跡と言ってもよかったと思うけれど、それは二度も続かなかった。


学生たちの身体で造られた壁をかきわけるように迷路を抜けて、文字通り視界が開けたかに見えたその時、目前に小さな女の子が身を屈ませようとしているのが見えた。ちがう、見えたとはっきり言えるかどうか、怪しいものだったけれど、少なくとも、彼女――矢口真里という名の、小ぶりでかわいらしい女の子――が拾おうとしていたファッション雑誌がわたしの目にほとんど入らなかったのは確かだった。

「ぶつかる!」

と思って彼女をよけようとした次の瞬間には、もう手遅れで、わたしは彼女が落とした『ViVi』を、後で調べたらそれは6月号、「今年は『白』で勝つ!」という特集が組まれていたものだったみたいで、それを体勢を崩しかけた右足で踏みつけた末に、派手に転ぶ。いちおうわたしにも生物的な咄嗟の判断というものが備わっており、どうやらなんとか手をついてみたらしいけど、それでも痛くて、そして恥ずかしくて、なんだか起き上がる気にはなれなかった。ああ、韓国語、遅れちゃうかなあ。あの授業、遅刻するともうその時点で欠席扱いだからとても困るんだけど、すでに間に合わないかもしれない。韓国語。それならば、いっそ、ここで倒れていたほうがいいのかもしれない。だいたいこんな、這いつくばって、痛いわたしが、三号館の、二階にあるあの教室へ行けるだろうか。いや、むしろ、わたしはここで倒れるべきなのだ。

 とか何とか、ふわふわした頭でぐるぐるいろいろなことを考えていると、

「ちょ…ねえ、大丈夫?」

と声がかかる。先ほどの、小さな彼女だった。わたしは、「あっ」と思い、返事しなきゃって、んん、と腕をつき、半身を起こし振り返ると、眉根をわずかにひそめて心配そうな顔をした彼女がわたしを覗き込んでいる。その顔は小さくてかわいらしい。茶系の明るい色で、肩の辺りまで伸びてゆるやかに巻かれている髪、くりりとした愛らしい瞳。触れたら心地よさそうな唇が少し震え――ごめんね、ほんと大丈夫? いきなりだったからこっちもびっくりしちゃったけど…――彼女がわたしを見て、心配そうな声をかけていた。

「あ…いや…大丈夫です…」

「ほんとに?病院、っていうか医務室行こうか?」

「ええ、でも、いやほんと、大丈夫ですから」

 そう答えて立ち上がろうとした時、わたしは自分が何に躓いて転んだのかを理解した。わたしのせいで、ぐちゃぐちゃになった『ViVi』がそこにある。表紙に写る、どことなく目の前の少女に恰好が似ている気がするきらきらとした印象の明るく綺麗な女の子たちは、わたしの走る速度による勢いを上乗せされた体重がかかったスニーカーによって潰され、ぐしゃりと形を変えていた。いくらなんでもくしゃくしゃな顔になっては、恐らく恋には勝てないだろう。ちがう、そうではなくて、たいへんだ。わたしは人の雑誌をだめにしてしまった。「! ごめんなさい!雑誌…!」と答えるあわあわ顔のわたし。

「ああ…別にいいんだけどね。もう読んじゃったし」

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