Extension du domaine de la lutte

2005-07-14

[]セグメントアドレスNo.1

 趣味嗜好によりセグメント化されたユーザー層に向けオプトイン的な日記を書けばビジネスチャンスならぬアクセスチャンスが訪れると聞いたので、日記を分けている。というわけでもなく、実際は分裂しているだけである。そもそも日記のセグメント化がアクセスチャンスを云々などそんなこと誰が言ったのか…あ、俺だ。今俺が言ったのだった。というか、日記ではなくて仕事企画書に似たようなことを書いた覚えがあるのだった。それを日記に置き換えてみただけだった。さらに言えば、それすら当然オリジナルの文言であるはずがなく、オプトインメールに関するどこかの解説記事の受け売りであった。割と、コピペと援用の力で企画書は成り立っていると言える。


 しかし、広告メールのセグメント化はビジネス資本主義的効率を考えると有用性が高いが、日記広告メールに比べると資本主義的要素は薄い。ゆえにセグメント化された日記は、有用性の高さはあるのかもしれないが、どちらかというと単に統合性を欠いた分裂症的なものなのとなってしまうのではないだろうか。

 セグメント化されたオプトインメールを統括しているのは企業であるが、セグメント化された日記を統括するのは個人である。個人のほうが、よりダイレクトに感情に左右されるので、分裂症的側面の影響をよりダイナミックに受けやすく、そのような日記たちは個人の精神活動を引き裂くような恐れが多々あると言えるだろう。分節化された個々の日記はそれぞれ不可避的に偽-自己的なペルソナを纏わざるを得ない。より強く。そもそも「真-自己」は所在するのかという問題は別として、またそもそもどんな日記も偽-自己的だという前提も別として。


 ただ、問題は、「何が」日記サイト管理人にセグメント化された日記を書かせるかである。日記を書く個人は――元々「商業的」な日記ではないしそれを標榜してもいないならば――統合化された日記を書くことを「望む」。言い換えれば、ありのままの個人を日記に反映し、それを受容されることを希求している。だが、日記を読む他者は自分の趣味嗜好に合ったセグメント化された日記を要求するのだ。というより、要求せざるを得ない。ゆえに、「受容(と出来れば賞賛)」を求めるある種の凡庸な日記書きは時に悩む。様々の人間の趣味嗜好に合った「おもしろい」日記が求められるのだから、その要求に応えようとする。また同時にその要求からは外れるが彼の好きなこと書きたいことを書くという欲求がある。そことの調整・せめぎあいの結果として、彼が取る施策の行き着く先が日記のセグメント化となる。セグメント化された個々の日記はもちろん「各々の読者」に「受容」される割合が増すだろうし、当初はそれを彼も喜びもするだろう。


 だが、往々にして、セグメント化は更なる細分化を要求しもするし、また彼はとあるセグメント化された日記(特に、もっとも広範な支持を得ていると彼が思い込んでいるもの)を、「たとえそんなものを書く気分ではなくとも」書き続けなくてはならない。同時に「そんな気分に合った」日記も書かなくてはならない。疲弊と、日記群に飲み込まれる恐怖が彼を襲う。なぜなら彼が書く日記それぞれは今や「彼」と大いに乖離している、異質のものだからだ。しかしすでに彼の統合的日記は消失しているとはいえ、もはやセグメント化された日記群の総体らしき朧げなものが「彼の日記」であるから、彼の日記は窮極的には「そのひとつとても書き損なわれてはならない」。彼は書かなくてはいけない。書き続けることによりまた彼の日記は分裂してゆくとしても。これは彼の悲劇である。しかし、彼が招いたことでもある。




 というかもう何かいてるんだかわかんなくなってきたから素に戻るけど、俺も自分の日記がいくつあるのかは忘れた。アイディーfarrah以外にも、ここと、もういっこあって、あと他にもふたつくらいはてな以外の日記があった気がする。もう何がなんだか、あんまりよくないなあと思う。

ゲスト



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