純粋日記

純粋日記

概念として存在するのみで実際には現れたことのない、想像上の日記。

全ての日記は純粋日記と純粋ブログの間の無限に切り分けられる段階のどこかに位置付けられ、日々移動する。この振り幅が大きいと、しばしば移転と閉鎖、パブリック化とプライベート化、ログ消去を繰り返す不安定な日記になる。また、見た目の振幅を押さえるために、日記を複数の箇所に書いたり、いくつかの口調を使い分けることで単体の日記としてみた場合の安定度を高める手法がある。

具体的には、「他人の日記を見たことがない状態で書いた日記」「他人に読まれることを想定していないのに何故かWEBで公開されている日記」「全てをありのままに記述する日記」を想像すると近い。

求めるほどに遠ざかる、そんな不思議な存在が純粋日記です。

日記を書いている全ての人にとって純粋日記が魅力的なものであるかどうかはわかりませんが、僕は心を引かれます。キーワードの中に僕とか書いて良いんでしょうか……。まぁ、他の方は編集しないとおもいますが……。

「純粋~」という言葉を見ると、「純粋階段」を思い出します。つまり、第一号トマソンであり、どこかに行くため、にあるのではなく、上がったところに入り口がある、のではなく、純粋に上ったり降りたりするためだけにある階段、です。仕方なく何かのために労力を使うもの、なのではなく、ただその機能を味わう<ため>にだけある(このあたりが中途半端なのかもしれない)もの、日記で言えば、毎日の記録を書くだけの日記、ということになるでしょうか。他人への公開を意図しないかどうかは多くの不純要素のうちの一つですが、主要な不純要素なので、重要な要素です。また、トマソンもそうだったように、自らの意志で純粋を創り出すのは不可能です。意志したとたんにそれは不純な狙いとなるからです(トマソンの最大の敵は「芸術」でした)。つまり、「求めるほどに遠ざかる」というわけです。ですから、「純粋日記」は、あるいは、日記の純粋(さ)は、(トマソンがそうだったように、)書くものではなく、発見するものではないか、と思います。書かれた場所、書かれた時、書かれた状況、書かれた分野、から外れて、日記の目的よりは日記そのものが露出している部分を鑑賞者が発見する、「あれ……これは(この部分は)純粋日記ではないか……」のようにふと発見される、そういうものではないでしょうか……。

なんか無理がありますが、たとえば、意味なく無駄に凝った比喩が使用されてしまっている司法試験挑戦日記、などでしょうか。あんまりおもしろくないですね……。違うような気もする……。トマソンは、補修改修がある、同時に、不動産であるため補修改修が完全に意図どおりに出来ない、ことがおもな出現要因ですから、日記に当てはめるのは無理かもしれません。

純粋日記の素晴らしい所は、我々日記戦士には思いもつかなかった表現や発想がそこにある、ということではないだろうか?日記戦士たちの舌を出す、嘲笑う、そんなありふれた表現ばかりが並ぶ日記、そんなありふれたスタイルこそが日記界の閉塞感に繋がっていくのではないだろうか?そのような意味でも未だ見つけられていない純粋日記は重要である、というよりも、例えば見られることを想定した日記はどれもそこそこ面白いけど、純粋日記はほとんどは面白くないけれど、たまに信じられないぐらい面白いのがあるからやめられへんで!